海紅俳三昧会場

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第83回俳三昧 1 - 俳三昧

2019/09/12 (Thu) 12:04:15

立ったまま枯れている私も向日葵  直弥

Re: 第83回俳三昧 1 - ゆきこ

2019/10/08 (Tue) 21:36:35

向日葵は、孤独な花なのかなと思いました。
遅れてごめんなさい。

Re: 第83回俳三昧 1 - 秀斗

2019/09/29 (Sun) 17:08:14

つらい現実からも目を背けない、作者の器を感じることができる一句です。まだまだひまわりの枯れない季節だと思います。

Re: 第83回俳三昧 1 - はるか

2019/09/27 (Fri) 00:10:36

非常に切実な飢餓感のようなものを感じました。
自分はこの現実の中で生きているけれども、内実は枯れている。
生きているんだろうか、死んでいるんだろうか。
いや、生きているけれども枯れているのだ。
自分の内部を満たす生命感が欲しい。
向日葵であるところに希望を感じます。
顔だけは光の方を向いている。
太陽の、希望の方向を。

ただの深読み、私自身の実感に過ぎないかもしれませんね。
ちょうど、穂村弘と高橋源一郎の対談(『どうして書くの?』)を読んでいて、今の時代について考えていました。
死を遠ざけ、面倒なことはなくして、どこまでも便利を追求して、結果、私たちは生命から、生きる実感から遠ざかってしまったのではないか。それが今の時代の詩をも弱くしているのではないか。
そんな時代の感覚をこの句は良く表しているような気がしました。

Re: 第83回俳三昧 1 - こう

2019/09/23 (Mon) 13:27:21

すみません。下記はこうの評です。

Re: 第83回俳三昧 1 - 俳三昧

2019/09/23 (Mon) 13:25:20

武蔵坊弁慶の最期がよぎりました。
枯れた向日葵は何ともさびしいものですが、それでも崩れることなく立ち続ける姿が誇らしいです。
作者の哀しさと矜持、相反する思いが最後の言い切りによって見事に表現されていると思いました。

Re: 第83回俳三昧 1 - 吉明

2019/09/19 (Thu) 06:02:17

作者もそろそろ自分の才能や力量の限界を思い知ってしまう年齢になっているのかも知れない。どうにもならない自分の姿を枯れた向日葵の姿に投影し同化しているように思います。

Re: 第83回俳三昧 1 - 田中耕司

2019/09/18 (Wed) 13:31:59

ヒマワリの枯れてゆく様子は、今までもたくさんの作品が作られてきたと思う。作者の内面がむき出しになってしまう場合が多いと私は思っているのだが、自分まで向日葵にしてしまった作品は初めてだと思う。もしかしたら、小学生もしくは幼稚園児あたりにこの発想があるのかもしれないなと思った。  (失礼)

Re: 第83回俳三昧 1

2019/09/17 (Tue) 01:06:46

昔ながらの太くて背の高い花の口径も大きいひまわりを思いました。

ひまわりの立ち往生を孤独や悲哀でとらえるか、「わが人生に一片の悔い無し」的なプラス志向でとらえるかで句の印象が違うなと。

台風でなぎ倒されたり、刈られたり、抜かれたりする場合もあると考えてそれを人生に重ね合わせると、ひまわりの立ち往生は、大往生ととらえても良いかなと。そう思うと何か句から清々しさも伝わってきました。

作者の意図とは真逆の読みになってしまうかもしれませんが。。。

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